私は、和田高明氏が、古田史学の会編『古代に真実を求めて 第四集』(明石書店、2001年10月1日発行)に寄稿された「大和朝廷の成立(1) ― その驚くべき真相」に大いに刺激を受けました。残念ながら、その続編である(2)は公表されていません。
http://www.akashi.co.jp/book/b64467.html
次は、その論考を説明したものではありませんが、私は継体以後の古代史を次のとおり推測しています。あくまでも推測です。根拠は乏しいです。
以下、箇条書きにします。
(参考) 皇室の系図一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
☆継体が、大和地域の一定程度を支配する。
☆九州王朝が、継体の大和における支配権を承認する。
☆継体は、嫡男である安閑を九州王朝に人質として送り出す。
☆安閑は、九州王朝の天子から“勾大兄(まがりのおおえ)”の称号を授与される。
“大兄(おおえ)”という称号は、過去に仲哀時に、「彦人大兄(ひこひとのおおえ)」以来、勾大兄が2番目に登場した。
☆継体は、後継者を欽明に変更する。
継体は、前〃の支配者であった仁賢の娘・手白香皇女(たしらかわのひめみこ)を正妻とし、その二人の間に欽明が生まれていた。
☆欽明を九州に送り出し、逆に、安閑を大和に戻す。
安閑は、父・継体と同じく、仁賢の娘・春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を正妻としていた。
☆安閑とその弟・宣化は、継体に対するクーデターを行う。
☆継体は、その時の傷で死亡する。
☆安閑が、大和王権を掌握する。
☆欽明は、九州王朝の天子に謁見する以前であったため、大兄の称号を授与されなかった。
☆九州王朝の天子は、欽明を憐れみ、また、今後の大和対策の“駒”として、「糟屋の屯倉」を与える。
「磐井の乱」は、近畿王権内部の不祥事を隠すために記載された。しかし、「日本の天皇及び皇太子・皇子皆死んだ」との記述は、時期は不明だが、九州王朝内部で起こったことである。
☆安閑の死亡後、宣化が後継者となる。
『古事記』では、継体記に「この中に、天國押波流岐廣庭命(欽明)は、天の下治らしめしき。次に廣國押建金日命(安閑)、天の下治らしめしき。次に建小廣
國押楯命(宣化)、天の下治らしめしき。」と記述されている。しかし、順序が異なる。これは、『古事記』編者は、当初、安閑と宣化の支配権を認めていな
かったが、敏達の母で宣化の娘である石比賣(いしひめ)を権威付けるために、挿入したものと思われる。
☆宣化が、自分の娘二人を欽明の妻であり、かつ、人質として送る。この人質は、九州王朝に対する人質でもある。
石比賣(いしひめ)と小石比賣である。後世で、天武が天智の4人娘を妻とした先駆けである。
☆欽明の子である、敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子が九州で生まれる。
☆敏達、用明、崇峻、推古、聖徳太子は、蘇我氏とともに近畿に進軍した。
☆敏達が、大和の王権を継承する。
☆例の廃仏論争の本質は、九州王朝に服従するか否の問題である。
☆仏の顔は、九州王朝の天子の顔を似せて作られた。
☆蘇我氏は、九州王朝内部では天皇家よりも地位が高かった。
☆天皇記・国記を蘇我氏が持っていたのは、その理由による。
以上のように推測しています。
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